JWCSの成り立ち

スティールマッチの歴史[アメリカ/日本] 、そしてJWCSへ

実銃シューティングマッチ
U.S.STEEL CHALLENGE & WEST COAST STEEL HISTORY

text by Takeo Ishii

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  • photo by Tomo Hasegawa

「複数の鉄板ターゲットを如何に速くヒットするか?」を競う、単純にして奥深く、そしてエキサイティングなシューティングマッチ、『ワールド スピード シューティング チャンピオンシップ(WORLD SPEED SHOOTING CHAMPIONSHIP)』。

通称“スティールチャレンジ(STEEL CHALLENGE)”としても親しまれているこの競技は、1970年代からカリフォルニアで活躍していたTOPシューターである “ 2人のマイク ” 、すなわち、マイク・ドォルトンMIKE DALTON)とマイク・フィッチマン(MIKE FITCHMAN)によって創設された。


第1回大会は1981年の開催。「ダブルトラブル(DOUBLE TROUBLE)」、「フライングM(FLYING M)」、「ファイブ トゥ ゴー(FIVE TO GO)」、「スピード オプション(SPEED OPTION)」の4ステージが行われ、初代チャンピオンにはジョン・ショー(JOHN SHAW)、トップウーマンにはメルバ・プルー(MELBA PRUITT)が輝いた。

18インチ×24インチのラクタングルを40ヤードの距離から撃たねばならず、しかもシューティングボックス間の移動も入るなど、現在でも「最難関ステージ」とされる「アウターリミッツ(OUTER LIMITS)」が加わり5ステージとなったのは1983年の第3回大会から。最終ステージまでもつれ込む接戦を制してミッキー・ファアラ(MICKEY FOWLER)が優勝、リンダ・ズビアーナ(LINDA ZUBIENA)がトップウーマンとなった。


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  • スティールチャレンジの名物ステージであった、ボックス間移動のある「アウターリミッツ」
  • photo by Takeo Ishii

日本にシューティング文化を伝えた最大の功労者、イチロー・ナガタは1984年/第4回大会からスティールチャレンジに参加。当時の開催時期は4月であり、イチローは5月のビアンキカップの前哨戦として不利を承知で重量のあるロンパワーカスタム(リボルバー)にエイムポイントの組み合わせで挑戦。総合120位という結果だった。84年の優勝者はニック・プルー(NICK PRUITT)、トップウーマンはリー・コール(LEE COLE)。
※リー・コールは翌1985年もトップウーマンに輝き、当時は「極めてギャンブル性が高い競技で、同一人物による連覇は難しい…」とされていたスティールチャレンジで史上初の部門2連覇を達成している。

1986年と1987年には日本から海を渡って参加するトイガン出身のシューターも現れた。現在でも活躍しているコン・ヒロタカやショウジ・カズノリはこの「最初の渡米組」メンバーである。

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  • 1980年代後半、世界最強のシューターだったロブ・レイサム。自身のイニシャルを冠したウィルスンLE-Kで貫禄のシュート
  • photo by Ichiro Nagata/MGC創業30周年記念カタログ『SHOOTIST 1990 MATCH EDITION』(Copyrighet(C)1990 by MGC Incorporation Printed in Japan)より転載

総合優勝で史上初の2勝目を挙げたのは1988年/第8回大会のチップ・マコーミック(CHIP McCORMICK)。1986年以来2度目のチャンピオンを獲得した。

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  • チップ・マコーミックは、常に安定して上位に食い込むコンスタントな腕前を誇っていた。オリジナルブランドのカスタムパーツは現在も売れ行き好調だ。
  • photo by Ichiro Nagata/MGC創業30周年記念カタログ『SHOOTIST 1990 MATCH EDITION』(Copyrighet(C)1990 by MGC Incorporation Printed in Japan)より転載

また、現在S&W社の看板を背負うプロシューターであり、“ 歴史上最高のリボルバー使い ” として名高いジェリー・ミチュレックが頭角を顕したのはこの時期のスティールチャレンジだった。

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  • スティールチャレンジ初代チャンピオン、ジョン・ショウ。この1989年大会を以降、競技シューティング界から長く遠ざかっていたが、ISIレンジで最後に行われた2011年の大会には愛妻と息子さんを伴ってにこやかに復帰した
  • photo by Hiakru Uesaka/写真集『The MASTER』(国際出版刊/1992年4月15日発行)より転載

1989年/第9回大会にはアメリカ在住組、日本からの渡米組合わせ、総勢約20名の日本人シューターが参加。現在もSATマガジン等で活動しているトモ・ハセガワや、イシイ・タケオの初渡米戦でもあった。

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  • 1989年、46歳当時のイチローさん。オリジナルデザインのスピードリボルバー「ツチノコ」を腰にハンズアップ
  • photo by Ichiro Nagata/MGC創業30周年記念カタログ『SHOOTIST 1990 MATCH EDITION』(Copyrighet(C)1990 by MGC Incorporation Printed in Japan)より転載
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  • 1989年、20歳当時のダァグ・ケェニッグ。前年のスティールデビュー戦に続き、2年連続で4位入賞。そしてこの翌年の1990年、彼はビアンキカップで史上初めての1920点満点を叩き出すのである
  • photo by Ichiro Nagata/MGC創業30周年記念カタログ『SHOOTIST 1990 MATCH EDITION』(Copyrighet(C)1990 by MGC Incorporation Printed in Japan)より転載

1990年/第10回大会ではジェスロ・ディニシオ(フィリピン)とジュディ・ウーリー(カナダ)がそれぞれ、米国籍以外の選手として初めての総合優勝とトップウーマンを獲得。ジェスロはまた92年/第12回と、93年/第13回にかけて、史上初のスティールチャレンジ総合連覇を成し遂げている。

また1990年/第10回大会ではトモ・ハセガワがイチロー・ナガタがディザインしたS&W M12ベースのカスタムリボルバー「クロノコ」でアマチュア部門のトップリヴォルヴァを獲得し、パワーカスタムを賞品としてゲット。翌1991年のビアンキ初挑戦に使うためのパワーカスタムを射撃の実力で獲得するという快挙を成し遂げた。

そして、当時「日本のエアガン射撃界最強のシューター」と言われていたコガネイ・ヒロシは、ブライアン・イーノスから下取りしたウィルスンLEにダットサイトをマウントしたカスタムを用いて好成績を挙げた。この直後あたりからジェリー・バーンハートやダァグ・ケェニッグら、当時の若手トップシューターたちが相次いでダットサイトを搭載したカスタムオートをUSPSAやIPSCの試合に投入して好成績を挙げ始めたのは、単なる偶然とは思えない。


1993年/第13回大会以降、スティールチャレンジの開催が一時期中断された期間があった。年々大規模になってゆく大会そのもののあり方や運営組織、スポンサー制度等を再度見直すための冷却期間だった… と捉えられているが、真相は良くわからない。

ともあれ、この3年間の休眠期間中にもスピードシューティングを愛する世界中の人々からの熱心なリクエストが途絶えることはなく、大会創始者である “ 2人のマイク ” 主催の元、第1回大会の開催地であるカリフォルニア州レイクパイルーのISI=(インターナショナル・シューティスト・インスティテュート)レンジにて1997年、遂にスティールチャレンジは「原点に立ち返って」復活した。

通算14回目となるこの1997年大会から開催月が8月となり、いわゆる「お盆休み」と時期が重なるため休暇の調整が比較的容易になったことから、日本からも毎年数人が、複数年に渡ってコンスタントに参加するようになる。

また大会創設者にして主催者のマイク・ドゥルトン、マイク・フィッチマンの働きかけにより、いわゆるタクティカル系のノーマル銃で参加できるIDPAクラスや、オールドスタイルの銃や服装で楽しむカウボーイクラス、そして女性や年少者、射撃の初心者でも気軽に参加できるリムファイヤ(.22口径)クラスなどを新設。この1997年/第14回大会以降のスティールチャレンジは参加者の間口をより広げるための活動をより積極的に行うようになった。



西暦2000年を越えると改革がさらに進み、IDPAのレギュレーションに合わせる形で標的までの最大距離が40ヤードから35ヤードに短縮され、アウターリミッツの距離が短くなってやや易しくなった。しかし代わりにもうひとつのシューティングボックス移動系競技だったフライングM 2000(FLYING M 2000)が廃止され、後にアウターリミッツと双璧を成す難関ステージとして選手を悩ませる「ペンデュラム(PENDULUM)」が新設されたり、と、スティールチャレンジはその名の通り、参加する選手全員が常に自己に挑戦し、射撃技術向上を持続しなければならない競技として在り続けたのである。



そして迎えた2004年/第20回大会は、我々日本人シューターにとって忘れられない試合となった。その時すでにJSC(ジャパン スティール チャレンジ)では「並ぶものなき絶対王者」として君臨していたマック・サカイが、日本人シューターとして史上初めて、本場スティールチャレンジのチャンピオンになったのだ。実銃ハンドガンの所持が実質上許されない我が国に在住しながら、主にトイガンによる練習を中心に腕前を上げて掴んだ栄冠に、世界中のシューターが驚き、また賞賛の声を挙げたのである。

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  • 前人未到、空前絶後の、日本人として唯一、スティールチャレンジ優勝を果たしたマック・サカイ。いまなお日本のスピードシューティングを牽引し続けるトップシューターである
  • photo by Takeo Ishii

このようにして年々盛り上がり、述べ参加者数350エントリーという驚異的な人気を誇っていたISIレンジでのスティール・チャレンジだったが、カリフォルニアでの開催は2011年の第28回=30周年記念大会が最後となった。それまでスティール・チャレンジ競技の普及、振興に尽力してきたマイク・ドォルトン&マイク・フィッチマンの両氏が、「世界大会=ワールド スピード シューティング チャンピオンシップ」の開催権をプラクティカル・シューティングの全米最大組織「USPSA」に売却・譲渡したのである。

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  • JWCSの広告写真モデルであるユイ・カミヤは、レディスクラスを超えたシューティングセンスを持つ。1シューターとしてだけでなく、グァムの実銃射撃場「GOSR」のメインキャラクターとして活躍中
  • photo by Takeo Ishii

翌2012年以降はマイク・ドォルトン主催でISIにて6月に行われる試合は「ウェスト コースト スティール(WEST CORST STEEL=西海岸大会)」として、やや規模を縮小した地区大会として質素に行われ、秋にはUSPSA主催の世界大会がフロリダで大々的に開催される事が決定した。

ところが、WCSが2012年、2013年共に150エントリー以上の参加者を集め、以前と変わらぬ人気を博したのに対し、USPSA主催のフロリダスティールチャレンジは、参加者が2年連続で100名を割り込むという苦戦のスタートを強いられる事態に陥った。



「全く同じ内容のマッチが西海岸と東海岸で行われたのでは、参加者が割れてしまうのも当然だ。ここは我々西海岸側が内容を刷新し、新たなスティール・マッチを創生するべきではないのか? 西と東で時期をズラして違う内容のマッチが行われるならば、真のスティールファンは両方の試合に参加したくなるだろうし、また、そうであってこそ、異なる地域に住むシューター同士の新たな出会いや交流の機会が増えるのではないだろうか?」

そう考えたスティールチャレンジ創始者、マイク・ドォルトンは2013年末、WCSのコースを全面刷新すると発表。新たにデザインされたオリジナルの7ステージは、そのいずれも12インチサークルと18×24インチラクタングルのみで構成され、カリカリにチューニングされたオープンクラス・レースガンでなくとも快適に楽しく撃ち終えることの出来る、“ シューターフレンドリーな内容 ”となった。


全面刷新となった新たな7ステージによるWCS本戦は、2014年6月21日(土)〜22日(日)の日程で、ISIレンジにて開催される事が決定している。

それに先立ち、1月にはISIレンジで初のオフィシャル月例マッチが、そしてイチロー・ナガタのホーム射場であるマリポサピストルクラブでも3月にローカルマッチが開催され、スティールチャレンジを長年撃ち込んでいるベテランから、この時初めて試合の場に臨んだ初心者シューターまで、好評のうちに受け入れられたのである。

また、USPSA主催で3回目となる本家の「ワールド スピード シューティング チャンピオンシップ」も、今年はユタ州に開催地を移して、6月25日(水)〜28日(土)の日程で開催されることが先ごろ発表された。




エアソフトガンシューティングマッチ
JSC & JWCS HISTORY

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  • photo by Ichiro Nagata

「JSC」こと「ジャパン スティール チャレンジ」は1985年に始まった。

第1回大会と第2回大会はモデルガンに赤外線発光装置を組み込み、それをカメラのような構造を有したターゲットシステムが感知して表面に取り付けられた紙製プレートが内蔵された電磁石によって“パタン!”とはためいて命中を知らせ、同時に接続されたタイマーで秒数も測れるという、MGCが製造販売していた「シューターワン」という機材を用いて行われた。

開催場所はナント、新宿の高層ビル群の麓という、現在では考えられないような公共スペース。弾の発射されないモデルガンならではの安全性を活かしたイベントだった。


1987年からは当時一世を風靡した月例のエアガンマッチ、「プラチナカップ」の開催場所としても知られた北赤羽荒川河川敷にて、毎年8月にエアガンを用いて行われるのが通例となった。

1987年の第3回大会は鉄板標的に着弾すると跡が残るペイントBB弾を用いて行われたが、1988年以降は着弾を音で判断する通常のBB弾が用いられた。当時は固定式ガスガンの全盛期で、トップシューターの愛銃は決まって、MGC製のウィルスンLEもしくはその派生型だった。

当初は3ステージ、ストリング数も3回でベスト2回を取る… といった簡素な内容で行われていた試合も、回を重ねる毎に進歩。1990年頃には参加者も200名を超え、ステージ数も5つに増加するなど、大いに盛り上がった。



1990年代半ばになると開催時期が秋に移行し、同時に各種業界イベントやAPSカップの会場としても使われ、トイガン業界やシューティング競技そのものにも理解がある施設、という事もあり、「都立産業貿易センター/浅草台東館」を借りての室内会場開催に切り替わった。

それと同時に、春にはJSCの難易度をやや下げて初心者や初参加者の間口を広げる意味での「リミテッド・スティール」も始まった。ちなみにこの「リミテッド・スティール」の発想は主催者の変遷などを経て、現在の「アンリミテッド」(通称:アンリミ)に受け継がれている。

室内で開催されるようになったJSCは、もう雨天や荒天を気にする必要はなくなったが、会場のスペースや収容キャパシティの都合、あるいは設営から競技進行、そして後片付けまで限られた時間でこなさねばならないという時間的制約から、実銃のU.S.STEEL CHALLENGEが7〜8ステージあったのに対し、およそ半分の4ステージ構成で行われていた。



しかし2006年/第20回記念大会だけは土・日の2日間を使って8ステージ構成で行われ、大好評を博した。



これを受けて2010年/第25回大会は、現行のU.S.STEEL同様の全8ステージを1日で消化するという美事なオーガナイズで運営され、以降はこの形式が維持され、美事なチームワークで大会は続いている。

ちなみに長年JSC会場として親しまれてきた「都立産業貿易センター/浅草台東館」は、2014年3月末をもって改修工事のためクローズされたが、JSC主催者は新たな会場としてAPS本大会も行われる予定の「錦糸町/すみだサンライズホール」を確保。2014年/第29回JSCは9月14日(日)開催、と先ごろ発表がなされた。



そして、2014年は、JSC、アンリミに続く “ 第3のスティールマッチ ”として、今年から新装なったWCS(=ウエスト コースト スティール)をエアガン用にアレンジした「ジャパン ウェスト コースト スティール」、通称 “ JWCS(=ジョークス) ” がスタートする。

これはイチロー・ナガタがWCS主催者のマイク・ドォルトンと直接交渉してエアガン版マッチの公認開催権を獲得し、日本での主催を株式会社バトンTradingに委託したものである。

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  • ISIとスティール チャレンジの生みの親、マイク・ドォルトン。現在もシューティングの普及・振興に誰よりも情熱を燃やし続ける熱い男。今年2014年はいよいよ、「新生ウェスト コースト スティール」を主催する
  • photo by Hiakru Uesaka/写真集『The MASTER』(国際出版刊/1992年4月15日発行)より転載

本場のWSCの根本精神である「シューターフレンドリーな姿勢」を最大限継承することはもちろん、従来の国内エアガンマッチにはなかった斬新で意欲的な取り組みを数多く盛り込んでいる。

そのひとつが「国内エアガンシーンの現状を鑑みたコンパクトで合理的なステージ設計と機材デザイン」である。

JWCSでは「5枚の100mm円形プレート」と「4枚の150mm×200mmラクタングル」、「1枚の100mm×135mmラクタングル」、計10枚の鉄板標的があれば全7ステージの練習が可能になっている。また最大でも3m×7mのスペースで設置できるので、店舗単位、あるいは仲間内での練習場所も確保しやすい。

また、本戦で使用するターゲットにはアンリミでも好評を博しているKIT-BOY製の「光るターゲット」システムを全面導入する。これも初心者や経験の浅いシューターにとっては安心できる材料になるだろう。

そして、あらゆる嗜好のトイガンファンが一同に会するための、実に9つものクラス&カテゴリー設定があるのも大きな特徴だ。特に「マニュアルアクションライフル」や「バックアップガン」、さらに「タクレットクラス」等は、どれも史上初の試みであろう。

さらに、本戦開催会場を茨城県稲敷市のサバイバルゲームフィールド『特殊作戦群区』内に通年契約で借り受け、『JWCS公式レンジ』として開設。JWCSの全7ステージを常設してシューターが自由に練習できるようにし、また、毎月の試合形式練習記録会『JWCS月例会』等を積み重ねた後に本大会を迎える…という、国内開催のトイガンマッチとしてはかつて前例のない運営方法を導入することで、従来のマッチ運営では選手、主催者の大きな負担になっていた設営や片付けの時間を解消、練習場所も確保し、希望者は何クラスでも参戦出来る、エントリー数に制限を設けない画期的な運営方法を導入する。



2014年4月末、この『JWCS公式レンジ』が運営を開始し、同5月初の『JWCS月例会』を開催。そして7月、記念すべき初の公式戦『第1回 JWCSチャンピオンシップ』が開催される。

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